キャンプから帰ってきた子供たちが、私のいる教室にやってきてくれた。そして、再会を喜んでくれた。
こんな私のような教師であっても、再会を喜んでくれる子供が1人でもいれば、元気100倍である。
キャンプから帰ってきた子供たちが、私のいる教室にやってきてくれた。そして、再会を喜んでくれた。
こんな私のような教師であっても、再会を喜んでくれる子供が1人でもいれば、元気100倍である。
海は開放的な気分になる。自由とは「諸規定性における選択と決断の感度」という本質観取があるが、海にいる時は自分でどんなことでも選択できて、どんな決定もできる気分になる。
その最たるものは、波になされるがままになる選択であり、決断である。そこに大きな自由を感じる。
「境界線」ではなく、「境海線」になっているところがポイント。老若男女、異なった国籍の人たちが同じ海を楽しんでいるのを見て、ふと頭に浮かんだ句。
海という漢字には「母」がいると言ったのは、確か武田鉄矢氏だったが、海に入る全生命を受け入れる様子を見ていると、本当に大きな母性を感じてしまう。
娘をクイーンズランドバレエ団に送った帰り、立ち寄ったお店で買ったコーヒー。
今日はAustralian Dayで、祝日のせいか、ほとんど人がいない。そんな中、コーヒーを飲もうとしている自分をなぜか記録したくなった。
今日、学校の人工芝を歩いていたら、人工芝から自然の芽が伸びているのを発見した。
人工芝と同じ緑色であることに変わりはないが、全く質の異なる緑であるように感じる。
この芽は、二重の困難に打ち勝っていると言えるかもしれない。1つは、人工芝の下に敷かれた分厚い幕を突き破ったと言うこと。もう一つは、人工芝の上を駆け回る、子供たちに踏みつけられても負けないと言う事。
ところで、現象学的に言えば、すべての認識の裏には欲望関心が相関していると言う。今回、このような自然の芽が人工芝を突き抜けている様子を発見した裏には、どんな欲望関心があるのだろうか。
目新しい事を発見したいと言う気持ちだろうか。そして、それをこのようにブログなどでシェアしたいと言う気持ちだろうか。あるいは、もっと深いところで、いかようにも加工することのできる人工物ではなく、ゆるぎない力みたいなものを感じたかったのだろうか。
人工的な教材や、人工的なルールに囲まれた学校環境においても、子供たちの中にある自然が顔を何度も出してくると言う状況を反映していると感じたのだろうか。
今日、家族3人でブリスベンシティーに行きました。私はマスクをしていましたが、外にはマスクをしてる人を見かけませんでした。コロナはなくなっていないわけですが、コロナに対する認識が私と周りとかなり違うようです。
認識が違うと言えば、ブリスベンシティーの街中で、明らかにアジア人蔑視の内容の発言を、大声で叫んでいる人がいました。
その人にとっては、アジア人をそのように捉えることに何らかの確信があったのでしょう。しかし、到底共通了解を得られそうにない発言でした。
日本では「夢を叶えるゾウ」で有名なガネーシャ様が意外なところにいらっしゃいました。
空港近くにあるディスカウントショップのショーウインドウの中にいらっしゃいました。
何か哀れで可哀想だゾウと思いました。そこで一句。
神様を
ディスカウントで
ディスる店
その後、ワイフが新しい帽子を買ってくれました。ちょっとは若返ったかも。
これがほんとの老化ぼうし(防止•帽子)。
今日は家族で近くの自然の中に来ています。Walkabout Creekという場所です。湖があり、森林があり、休みの日にはぴったりの場所です。家から車で30分位のところですが、こんなに近くにオアシスがあるとは知りませんでした。
森林の中を歩いていたら、ガサガサ大きな音がするので、そちらを向いてみると、なんと大きなトカゲがいるではありませんか。
後で娘に聞くと、これはイグアナだそうです。日常生活とは、あまりにも異なる次元の存在に、私は思考が止まりました。
自然の魅力の一つは何度も思考から解放される瞬間があることなのかもしれません。
今日は家族でサンシャインコーストに来ています。オーストラリアと言えば、ゴールドコーストが有名ですが、私たちは圧倒的にサンシャインコーストの方が好きです。
今回は、海の向こうに沈む夕日を見ながら、とても大切な「家族会議」を開きました。この日の事は一生忘れないでしょう。
今年最後に娘から感謝のカードをもらった。
そこには英語で、「今ここを生きよう」と書かれてあった。
何か最近、過去や未来の事ばっかり考えて、ぐちゃぐちゃに思い、悩んだり、心と体が今ここにずっとなかったような気がする。
今年最後に、娘から本当に本当に大切なことを思い出させてもらった。
オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏
1年の最後に大掃除をしている。これは日本だろうとオーストラリアだろうと私の中では変わらない年間行事の1つである。
どうやら、私の中では、愛着と言うよりも、執着があるようで、なかなかものを手放すことができない。執着は、自分のエゴにとらわれていることをその性質とするようだが、愛着はその執着から少し離れたところにあるようだ。
今日は大晦日なので、除夜の鐘とともに、自分の中にそうした執着を取り除きたいものだが、ここでは除夜の鐘の音は遠く響かない。